鳥あるいはDolly

Dollyは人形でクローン羊でロリータ

『友人の社会史』

友人の定義がわからなくなったので読んでみた。

形式としては論文なので、すごくわかりやすかった。ざっくり結論だけ追いたければ、序章と各章の頭と、終章を読めばよい。

友人関係の変遷を新聞記事から分析しているのだけど、朝日新聞をベースとしているので高校野球に1章割かれているのがひとつの特徴かもしれない。

 

要約すると、2000年代を境に友人関係は「つきあわなければならない」関係から個々人が「つきあいたい」関係を選ぶ時代になったということが前提として浮かび上がってくる。

役割構造でなく内面に規定された友人関係は選択性を強める。これは関係からの離脱の気楽さとともに、いつ関係を解消されるかわからないという不安も連れてくる。この不安定さは友人への警戒感に結び付き「接したいけど、接したくない」という矛盾した欲求を喚起する。

 

高校野球がどういう文脈ででてくるかというと、こういう矛盾した友人関係のなかで、理想化された友人関係の典型として利用されている。

 

私自身はライフイベントのため、2000年を境に交友関係ががらりと変わってしまったので実感しにくいけれど「つきあわなければならない」関係自体は確実に縮小している気がする。

 

結論として本書は、気ままな人間関係は対立や意見のぶつかり合いに発展する前に互いの干渉を回避してきたけれど、あらゆる選択を「人それぞれ」として黙認する社会は優しいようでいて実は冷たいと言う。互いの干渉を制約しつつ、迷惑をかけない規範をつうじて個々人の行動を抑制しあう社会が誕生するからだ。

 

まあ迷惑の度合いにもよるだろうけど、今はかなり抑制がきいているのでもうちょっと個人に干渉してもいいんじゃない? その上で関係が揺るがないっていうのが理想的だよね、というのが著者の意見だった。

そしてそれは本当にその通りだと思うんだけど、そこまでの関係をじゃあどう築くのかって話だよね。ここまで抑制のきいた関係が当たり前みたいになってくると、片一方が踏み込んだ関係を築きたくても、もう片方に拒絶されるとそれ以上先になかなか進めないというか、こじれてしまいがちなので難しい。